ACIMワークブックに取り組んでいます。

奇跡講座(奇跡のコース)ワークブック編 特別解説1 赦しとは何か を読みました。

書いてあることはわかるのですが、 実生活に適用する必要はないのでしょうか?

悪いことをした相手を叱らなければならないし、叱るけど、内心では 「このようなことは起きていない。」 みたいに考えていればいい、ということなのでしょうか?

そもそも、ね、

「叱る」のと、 「怒る」のは違うということを、

理解して欲しい。

怒りがなくても 叱ることはできる。

叱るのは 「注意する」のと同じ。

子供が、赤信号で 横断歩道を渡りそうになった時、

ダメ! と言うのは、

怒りからそうするのだろうか?

子供がコンビニで まだお会計してないお菓子を 開けようとしたとき、

ダメ! と言うのは、

怒りからそうするのだろうか?

もしそうなら、 あなたは自分が可愛いだけだ。

世間体を気にしている 自分に問題がある。

そうではなくて、

単に、 本来の意味での「しつけ」 で、やっているのなら、

そこに怒りなどの感情はないはず。

悪いこと、って、何だ?

実際何を指している?

それは本当の「悪」なのか?

それとも単なる文化的常識なのか?

まずそこから考えよう。

で、後半。

叱るけど、内心では 「このようなことは起きていない。」 みたいに考えていればいい、ということなのでしょうか?

これはコース学習者に 本当によくありがちな誤解。

コースの概念で言えば、

内心でおきている考えもまた 「起きていない」ものだ。

あなたが自分だと思っている 肉体・精神そのものもまた、

世界の一部である。

そうではないその奥に、

本来の自分があるというのが コースの指し示すところ。

「赦す」とは、

自分の見方が絶対ではないと 謙虚に認めることだ。

人は「自分フィルター」を通してしか 物事を見ることができない。

そして、 それは真実ではないのだ。

自分の認識=真実 であると、 人(自我)は信じたがる。

しかし、 それは思い上がりに過ぎない、 ということを、コースはくり返し説いている。

レストランで コップに手があたって水がこぼれる、

このことだけで 人によってさまざまな見方がある。

感情が動く。

事実は、

「コップに手があたって水がこぼれた」

ということ、だけ、なのに。

誰が「悪い」のでもなく ただそうなっただけなのだ。

行為者というものは実在しない。

すべては 【神】によって 展開しているに過ぎない。

自我にはこれがわからない。

それが人間という生物の 限界であるということ。

これを謙虚に認めるところから 自由が、解放が、 心の平安が、始まる。