頂いていたご質問から。

武田邦彦という、ブッダについて語る人が気になりました。 その人は、自分探しは無意味とブッダは言ったと語っていて、何だか笑顔で人をバカにしている様で、自然体みたいに感じられませんでした。 見た目だけでは判断しないほうが良いですが、この感覚は正しいでしょうか(一人キネシも一応しましたし、何だかなよなよ感が否めなかったので。ちなみに一人キネシをすると200未満と出ました。まあ、正確では無いから江上さんに聞いているのですが)? あと、この人の言った自分探しは無意味という言葉は正しいですか? 少し悪口みたいになりましたが、 江上さんの意見も聞きたいです。

いつもありがとうございます。

その人のことは知らないので何とも言えず、 半端な情報を入れたところで判断つかないので、何も調べずに答えます。

>自分探しは無意味とブッダは言った

ソース(情報源)がわかりませんが、 他の聖者たちも同じような言い回しをしたことはあります。

が、

どんな言葉もコンテキスト(文脈)によってのみ 意味が決まるので、これだけでは その方の真意はわかりません。

わからないので無視して ちゃんと答えると、

「自分探しは無意味」については

大きく分けて 2つの意味があります。

1.悟りのコンテキストでの意味

ニサルガダッタ・マハラジのような ビシバシ系の聖者に多いですが、

彼らに言わせれば自分探しは無意味です。

自分はどんな人なのだろうか?

自分の得意なことは何なのか?

自分の才能はどんなものだろうか?

そうしたものはすべて 個という、自我の願いであり、

悟り・霊的覚醒とはまったく関係ないです。

真の自己(Self)とは すでにあるものなので、

旅行したり知識を蓄えるなどして 外で探して見つけるようなものではありません。

ちゃんと読んでますか?

あるんです。

いまこの文章を読んでいるのは あなた個人と思っているかもしれませんが、

それは、 このコンテキスト(文脈)で言うと間違いです。

真の自己が読んでいます。

そこにあるのです。 いつも。

2.人間的成長、霊的成長などのコンテキストでの意味

これは、 ようするに普通の意味です。

教育が重要だとか、 継続は力なり、みたいなことです。

自分探しをするということは、 向上心があることを意味します。

この 2の文脈において、

自分探しが無駄なはずはありません。

それをしていなければ あなたはいまこの文章にたどりつくこともなく、

そもそも文盲なので文字が読めません。

向上心のない人が より良い人生を送るのは難しいです。

なぜなら、 知識の吸収量が断然違うから。

そして、 歴史上の聖者たちや偉人たちが遺した 生きる知恵を学ぶことも難しくなります。

逆説的ですが、

自分探しは最終的に

「本当に大切なものは探す必要などなかった」

というゴールへつれてゆきます。

青い鳥の話しのように。

だからといって、

探したという経験が無駄かというと それは違います。

その論法は 論理が破綻しています。

逆もまた真なり、とはなりません。 (高校の数Aでやるやつです)

こんなことも分かっていない「先生」が あまりにも多く、知性を疑います。

最初からあっただから、 探すのは無駄だった、ということではなくて、

探したという経験あってこそ 真の自己はいつも一緒だったのだということに やっと気づけた、ということです。

少なくとも その知識を得ることができます。

それがなければ 赤ちゃんと同じです。

後になって分かったことで 過去を否定しても意味をなしません。

そうした考え方は、 経験とは何か?ということを 無視しています。

なぜ、ブッダがわざわざ 悟りの状態について語ったのか?

それについては、

帝釈天だったか大黒天だったかが

悟りのことについて 人々に話して下さいと頼んだ、

という神話が残っていますが、

無自覚な者に対し 指摘するものがいなければ

気づくかどうかは運任せでしかなく、

人類に遺された智恵を 伝える誰かがいるから、

気づくことが可能になるわけです。

ブッダはそれに納得し それまで瞑想ばかりしていましたが、

世間へ降りていって 語り始めた、という話し。

というわけです。

ブッダに関しては 信頼できる(劣化が極めて少ない)情報が 残っていますし、入手も容易です。

ですので、

誰かの話ではなく 本そのものを読むことをお勧めします。

ダンマパダ、 スッタニパータなどが、岩波文庫にあります。

なお、

法華経を含めた主な経典は、 基本的にブッダの作ではないのでご注意を。

とはいえ、 意識レベルが700台以上なので 有用なのは明らかです。

ではまた。